【読書】和食の文化史

野菜の運び手は仏僧が多かった。大航海時代以降になるとポルトガルやスペイン、その中には宣教師がかかわったと考えられる。宗教が食文化や食事の伝播に影響したことが窺われる。

 

。。。そうした記憶が残っているからだろうか、イモ、はあまり良い意味には使われない。

 

インゲンマメはアメリカ原産で、日本には僧隠元が持ち込んだ。

 

加えてブタは雑食なので、都市部で多量に出る残飯の処理にも適していた。

 

九州の生産、消費が多い背景には、江戸時代の福岡藩の鶏飼育奨励策があったようだ。

 

乳酸菌も漬物などの発酵食品に欠かせない重要な微生物である。乳酸菌は野菜の葉の表面などに自生している。

 

愛知県岡崎市には八丁味噌と呼ばれる豆味噌の産地がある。八丁は地名、岡崎城から八丁離れたところにあったことによる。

 

京都や大阪のいわゆる白みそは、コメの量は大豆の2倍に及ぶものがある。白みそは、公家のみそ、でもあった。

 

トマトも干せば強いうま味を出す。グルタミン酸が多く含まれるからだ。イタリア料理などでドライトマトが使われるのもうなづける。

 

九条ネギは葉ネギだが、寒い地域の為、冬の寒さに耐えるために土寄せして栽培される。

 

粽を公家の菓子とすれば、柏餅は武家の菓子である。

 

和食にあってはーとくにハレの日の食に顕著であるがー、植物性の素材を使って飾りつけをすることが多い。多くは季節性の演出に使わられる。かいしき、などとも呼ばれる。

 

懐石料理に使わられる「八寸」は、もとは八寸角の皿で、その上にいくつもの料理を並べる。料理の数は奇数が基本だが、茶懐石のルールを踏襲して、左手前に山のもの、右奥に海のものを置く。つまり、八寸の板が海と山の世界を表している。

 

一汁三菜の場合、さいころの5の目の位置に料理を置く。つまり、左手前に飯、右手前に汁、左奥と右奥に副菜、そして真ん中に香の物、という具合である。汁を飯の奥に置くケースが多いのは近畿地方を中心とする西日本で多く、とくに京都、大阪、兵庫ではその割合が70%を超えたという。

 

江戸時代の中ごろになると、西日本ではサツマイモの栽培が盛んになる。かて飯の混ぜ物にはサツマイモがよく使われた。その影響は、20世紀後半の、高度成長期ころまで残ったのである。

 

奈良漬とは。。。塩漬けにしたウリを味醂粕に幾度も漬け直してつくるもので、漬物のなかでも古漬けの代表のようなものである。

 

江戸の米市場の米粒は、大阪の堂島市場のそれに比べると10%も小さかったという。

大粒の米は高値で取引されたが、小粒の米はよく買いたたかれた。

 

今のこしひかりは、一粒22ミリグラム程度、25ミリグラムの米といえば、今の日本ではいわゆる酒米か、それより少し小さい程度。日本を代表する酒米「山田錦」は特別大粒でだいたい28ミリグラム程度、とされる。

 

大きな米粒には、その中心部に空気の層が入ることがしばしばあり、外見的には中心部分が白く濁って見える。これを心白というが、心白の入った米は飯用には好まれず、一方酒米では麹菌が米粒の中心にまで速やかに入り込むほうがよく、心白の性質はうってつけ。

 

穀類と違い野菜は長時間の輸送には耐えられなかった。。。東京の練馬ダイコンやコマツナ、京都の九条ネギ、賀茂ナス、大阪の守口ダイコン、天王寺カブラなどがその代表である。

 

排泄物はしばらく発酵させ、微生物による分解を経ないと肥料としては使えない。それに何より排泄物は病原菌の巣である。

 

田舎を誇る新たな動きも出始めている。かつて朝廷に食材を提供してきた御食国。若狭、志摩、淡路の三つの国である。

 

武士にせよ職人にせよ、これらの職業は男のそれであった。だから江戸の街には男が多く、一説によれば、江戸市民の70%は男だったと言われる。そして、その多くは単身者だった。

 

室町時代に入ると、麩やうどんなどの小麦食品が禅僧らによって中国から持ち込まれた。

 

屋台は食べるための空間を提供しなくてよい営業の形態である。開業にかかる資本が少なくて済むので、新規参入者には都合のよい業態である。加えて、移動が可能なので、大災害の後に被災者に食を届けるのに都合が良かった。

 

関東地方から北の地域では、同じ緯度でも、日本海側の地域の方が年の平均気温が高い。太平洋側では、北からの寒流が南下するのに対して、日本海側では暖流が北上している。日本海側の東北地方は古くからの米どころであった。春先の気温が高ければ播種を早めることが出来たのである。

 

西日本でよく消費されたタイは、大阪や京都の正月に「睨み鯛」として出される。。。タイは「腐っても鯛」というほど日持ちがする。

 

魚の細胞がもっているタンパク質分解酵素が筋肉や骨を分解し、アミノ酸をつくりだす。腐敗菌の繁殖は、その強い塩によって繁殖は抑えられる。

 

もともと北前航路が開設される前から、日本海側には海の交易路が開かれていた。もともとは近江商人が松前藩からコンブやニシンを上方に運ぶ海の交易路だったが、これを利用して、今の山形県・出羽の国の米を江戸に運ぶ航路を開いたのは江戸時代初期に活躍した豪商の河村瑞賢であった。

 

北から南への航海で運ばれたものは、コンブや身欠き?、棒鱈などの産物で、反対に南から北へと運ばれたものには、丸もちや和菓子など上方の食材や文化があった。

 

幕末から昭和初期にかけ、北海道の西岸ではこれでもかというくらい大量の鰊がとれた。その最盛期には、北海道などでは巨万の富を蓄えた網元も現れた。。。とれたニシンは三枚におろして乾燥させた。これが身欠き鰊で、船で関西に運ばれた。

関西では、身欠き鰊はコメのとぎ汁で時間をかけて戻して食べる。京都ではナスと炊き合わせて食べる。また汁そばに載せたのが鰊そばという名物料理である。

 

ホヤは、東北の海でとれる小動物の一種で。。。ホヤのはらわたは塩辛で食べるほか、ナマコのはらわたと合わせて塩辛にしたものを「ばくらい」と呼ぶ。

 

魏志倭人伝には、倭の国の人々が副葬中には肉食しないと書かれている。。。。精進食の伝統は仏教以前からのものということになる。

 

伝統的な焼畑とは、山の樹々を切って下草とともに焼き、出来た草木灰を肥料に作物をつくる農法をいう。草木を根元からじっくり焼くので、焼いてしばらくは雑草も生えない。開いた土地は二三年もすると地力が衰え、また雑草も復活するので休耕する。すると土地はまた森にかえってゆく。これを繰り返すので、地域全体で見れば森林は破壊されず、また若い森が更新されるので二酸化炭素の吸収も良い。

 

出雲と言えば、いなばの白兎の話では、うさぎがワニをだましてその仕返しに皮を剥がれることになっている。このワニこそ、今なお広島県の三次、庄原地方で食べられているワニこと、サメのことである。。。。サメは血液中に大量の尿素を蓄え、それによって浸透圧を高めているようだが、死ぬとその尿素がアンモニアに変わり。。。アンモニアのおかげで肉の腐敗が抑えられ、そのために山中に運びそこで食べることが出来た。

 

地域野菜で成功した事例をみると、。。。栽培する人がいて、調理する人がいて、そして食べる人がいて、はじめて在来品種は生き残れるのである。

 

ダイコンは、青首ダイコンという神奈川県m木浦の一品種が、出回るダイコンの九割を超えるまでになった。。。1979年、それまで栽培面積の一位だった日本晴を、コシヒカリが抜いた。以後40年にわたり、コシヒカリは栽培面積一位を占めている。その面積は30%を超えている。

 

身分の高い公家たちはといえば、「昼は二時間、夜は三時間かけて食事をしていた」といわれる。江戸時代の中期以降、日本社会はシカやイノシシなど野生動物の肉を含めて肉食をしなくなっていたが、その背景には秀吉の刀狩りと17世紀後半の生類憐みの令があったといわれる。

 

武家はよく茶を愛した。とくに、室町時代以降に花開いた茶の文化を支えたのは武家であったといって過言ではない。

 

城下町は菓子がおいしいといわれる。「三大和菓子処」などといわれることもある京都、金沢、松江のうち、金沢、松江は城下町で、古くからの和菓子が多い町として有名だ。

 

茶事にかかわる和菓子には、主菓子と干菓子がある。。。。干菓子は保存も利くので、ある程度の大量生産、つくり置きが出来た。。。(落雁)。

 

八代将軍吉宗にいたっては「飯、汁、それに三つのおかず」の一汁三菜であったというし、それも贅沢だと考えていたふしがある。。。。慶喜は出された食に文句は言わないという教育を受けていたようだ。

 

町人の長屋では、揚げ物が禁止されていたという。揚げ物にかぎらず調理そのものが推奨されず、町人は屋台などの食事に頼るようになった。

 

。。。缶詰は瓶詰は、第一次世界大戦時にドイツ軍が開発した兵糧食であった。

 

食材を保存する方法。。。乾燥、塩蔵、砂糖漬け、熱処理、発酵、燻製、密閉、薬剤処理などである。

 

和食が世界遺産に登録されたときに注目を集めたのが雑煮である。。。。多くの日本人が元日には雑煮を食べ、あるいは食べたいと思う事が注目された。

 

香川県や徳島県の和三盆糖や。。。。とくに和三盆糖は和菓子の世界では欠かすことの出来ない素材となっている。

 

「鳴き声以外はみんな食べる」といわれるくらい、捨てる部位はないのがブタという食材だと言われてきた。

 

和食は、四つ足の動物を使わない食文化であるともいわれる。一方、鳥や魚は肉には加えられなかった。二本足の鳥たちは獣ではない、だから食べてもよいという理屈である。魚にはクジラも含まれた。。。イノシシの肉も山鯨という隠語を与えられて半ば公然と食べられたし、ウサギは一羽、二羽と数えて鳥であるかの扱いにした。公家の街京都でも、ハクビシンの肉が食べられていたという。

 

歴史の本などにはよく、日本で肉食が発達しなかったのは天武天皇が肉食を禁止したからだと書かれている。。。。よく読めば禁止の期間は農耕の忙しい4月から9月に限られ、しかも食べてはいけない動物にはシカやイノシシは含まれていない。

 

むしろ、日ごろの食材から動物性の食材を遠ざける大きな役割を果たしたのは秀吉の刀狩だという研究者もいる。。。それによって農民たちは狩りの道具も奪われる事になった。

 

加賀料理を代表するものと言えば、治部煮とかぶら寿司だろうか。

 

高知の料理、土佐料理と言えば、なんといっても『皿鉢料理』。大きな派手な浅めの鉢に、姿寿司、刺身、蒲鉾、揚げ物など多彩な料理がこれでもかと盛り込まれる。。。高知の食材として特記しておきたいのがユズである。。。53%が高知産。。。高知県の食のもう一つの顔が、酒飲みの文化である。。。日本酒も辛口の酒が多い。甘いとたくさん飲めないからだともいわれる。。。。「どろめ祭り」。。。この時期が「どろめ」つまり生シラスの漁期にあたることで開かれる祭りで、。。。男性は一升、女性は5合の清酒をいかに早く、しかもきれいに飲み干すかを競うコンテストで、男性、女性の優勝者はそれぞれ13秒程度、11秒程度だったという。

 

卓袱料理は長崎の料理である。。。コース料理の性格をもちつつ、かつ大皿料理である。大きな円卓で楽しむ中華料理のスタイルをとる。。。。長崎の魚で一つ書き留めておかねばならないのが「あご」だろう。トビウオのことである。。。あごの出し汁は鹿児島県から能登当たりの日本海側の地域で用いられている。

 

大都市に住む人々の食生活は明らかにいびつである。食材を入手する努力をほとんどせず、加工することも調理する事もしない人がうまいものをひたすら追い求める構図は、おそらく持続可能ではない。

 

伊豆半島は魚のうまい土地だが、だいご味の一つはその日一尾だけあがった地物の魚を、港のそばのすし屋で握ってもらうことだといわれる。一期一会の寿司というわけだ。その魚は何という魚で、どのような生体の魚で旬はいつかなど、寿司職人の話を聞きながら食べるのが一番なのだという。